Me & My Degu

デグーとの暮らし、日々のあれこれ

南方より帰る

寝図美よこれがあの有名な

次男修学旅行より戻る。出発した後で祖父が死に、帰ってきた時には葬儀は終わっていた。事情を説明するも、案外冷静に受け入れる彼。「なんとなくそういう予感はありました」え、どうして?「とにかくこの旅行はぼぅっと待機している時間が長かったのですよ。そうすると、つらつらといろんなことを考えてしまうわけです。で、もしかしたらそういうことになっているかもしれないなぁと思っていました」へぇー、そういうモンですか。で、旅行はどうだった?「楽しくありませんでしたっ!メシはまずいし、そもそもファームステイって言葉はイイですけど、旅行なのになんでわざわざ農場で強制労働させられるのかワタシにはわかりませんっ!」えー、普段できないことさせてもらってるんだからいいじゃないよ、そだ、オプション料金払ったシュノーケリングツアーはどうだった?魚みた?「見てませんよ、あのねお母さん、連れて行かれた海岸って遠浅なんですよ、遠浅!果てしなく引き潮ですよっ!延々300mくらいずーっと水面は膝下なんですよ、んなトコでどうやって潜れっていうのですかっ!」

江川ゲンタ氏のコメントを読み、ざわざわした心のまま書きなぐった文章に反応していただく。「息子の成長メモ」を拝見して、なぜこんなにも気持ちが動かされたかというと、過去中学校で担任した1年2組の二人の女の子達と、そして至らなかった自分のことを思い出すからだ。もっとなんとかできなかったか、もっと違うアプローチがあったのではないか、あの時の私の言葉は、建前にしがみついた言葉は、彼女達の、そしてクラスメート達の頭上遥か遠く成層圏あたりを滑っていったのではないか。

わたし自身の関心は。こうした表現自体ではなく、実はこうした表現を生み出している「個人を越えたナニモノか」ということなんじゃないかと思う。この表現が「冗談のつもり」だったとしても。

考え込んでしまって、多分上手く言えないけど、でも書いておく

記事の後段、コメントを読まれての「あら?」という感触とはどういったものか汲み取る力がどうも私には備わっていないよう。その言い方ってひどいんじゃないの?と単純に憤ってしまうあたりが、2人の女の子とクラスメート達の関係をうまくつむぎ出せなかった原因なのかもしれないな。