Me & My Degu

デグーとの暮らし、日々のあれこれ

モヤモヤで思考停止

爆睡中!

id:lalulaさんの「ラルラちゃんにっき。」の「山崎まさよし『ADDRESS』(06.06.28)」を拝見して思ったこと。
「ADDRESS」を聴いての感想の基本的な部分は私の感じたものと同じなように思う。私も確かになにか「新しい気持ちで次の扉を開けたような」風通しのよさをアルバム全体から感じた。私だけでなく「ぱっと明るくなってるぅ、山崎さんなんかエエことあったんかもね〜」と聴いた人の大部分は思ったんじゃないだろうか。じゃ、lalulaさんの文章に全面的に共感するかというと、これがなかなかムツカシイ。

現在の山崎は暗闇の外にいる。少しデビュー当時に戻った風情で、青空のように爽快な笑みを浮かべている。しかし、この数年の彼は、精神の極北にあった。抗いがたい罪の後ろめたさが彼を苛み続けていた。それが何かはあえて書かないことにする。推測はついているが、正確な情報ではないかもしれないからだ。けれど、彼がその絶望と向き直ったのは事実だ。

この部分で非常に引っかかってしまう。平たく言うと「書けないなら書かないでくれ!」ということ。読者が読めない、それについて判断できない点を「推測はついている」「事実」と言い切りつつ、それがなんであるか「あえて書かない」というのでは、読んでいるこちらは困ってしまう。そうして、この評論はこのあえて書かなかった「抗いがたい罪の後ろめたさ」が山崎まさよしをどう変えたのかということを、何度も違った美麗な文章で表現してあるので、んもう読んでるコッチはフラストレーションを連続でかかえる羽目になってしまう。内容に対する共感や異論を抱く前にそのモヤモヤで思考が停止する。「貴方達が知らないことを私は知っていて、だからこういう風に考える事ができる」というのは、書き手が一段高いところに立っているかのような物言いであるわけで、そらそういうアプローチでは読み手は冷静に判断できなくなる。できたら「書けない部分」に触れない内容の「ADDRESS評」を読ませてください。
lalulaさん、文体とお書きになっておられるエントリーの端々にある「プロフィール」的なものから鑑みるに、以前時折おしゃべりさせていただいていた方ではなかろうかと思っている。その方は音楽評論を究めたいという意志をお持ちだったので、今回忌憚なく書かせていただいた。別人だったらごめんなさい。
もともと私は作者と曲のあいだをなにか特別の物語でもって結びつけていくことにはあまり関心がない。今作についての感想も、あんまり深刻にならずに「なんでか知らんけどムカシの前向きなカンジが戻ってきて良かったねぇ〜」ってくらいの気持ちでいるのが私は心地よいな。
国際結婚されてアメリカで生活されているsleeplessinseattleさんのblog「プチ玉の輿日記」にて「one more time,one more chance」について書いておられるのを拝見する。2005年12月3日。この曲を聴いて心を打たれた人が山崎氏の曲に自分を重ねていく様子を拝見するのは、ファン冥利に尽きる。「山崎まさよしの特別な物語」から外れた、こういう広がり方で山崎氏の歌がいろんな場所に届けばいいなぁ。