Me & My Degu

デグーとの暮らし、日々のあれこれ

オリジナリティ

タッパ一杯の種取スイカ

土曜日のお楽しみ、「美の巨人たち」(公式HP)を見ていて感銘を受ける。画家猪熊弦一郎氏の回。幼少より卓越した画才を持っていた猪熊氏は長い生涯をかけて「美」を追求していくのだが、あるとき尊敬していたアンリ・マティスに「君は絵がうますぎる」と言われてしまう。先達の絵が素晴らしいと思うとその美の要素が身中に入り込み自分の絵の中に現れてしまうのだ。そんな状況をどういう方法で打破したかというと、「まねの域」を出るために彼はまず徹底的に「マティスの絵」に耽溺した。自らすすんで「マティスの絵」を追及しきったところで、新しい「自分の美」への道を見つけ出すに至ったという。そしてこれまでに習得した技術や手法、作風を捨てていく。

id:setofuumiさんの「自分の言葉」というエントリーを数日前に拝見していた。

「学ぶ」というのが「まねる」から派生した言葉というのは割と有名な話だと思うのだが、この理屈から言えば「自分の言葉」が「他人の言葉」に勝るなら、「学ぶ」=「まねる」ことで得たものは全て「自分の言葉」よりも劣ったもの、という理屈になる。それでいて「自分の言葉」というのはかなり曖昧な表現なわけで、乱暴に言い換えると「あなたの言っているのは他人の言葉(なのでろくでもない)、それよりもっと素晴らしいものがどこかにある。ただし場所は知らん。」というような、無根拠に対象をろくでもない宣言できる便利な表現にもなり得る。というかこういう使い方をする人をweb上で何度か見たことがある。ここらへんから俺としては、安易に「自分の言葉」を振りかざす表現はあまり信用しないことにしている。   「自分の言葉」

先の猪熊氏だけでなく、音楽というものもまったくそれにあてはまるよなぁと思う。安易に「あれもパクリ!これもパクリ!」と騒ぎ立てるのも同じではないかと。また豊かな過去の音楽の鉱脈に触れもせずに声高に「これが俺のオリジナリティだ!」を叫ぶのも、ちょっと恥ずかしいのではないかと。
なにもない無重力空間にぽっかりと「自分の音楽」とやらがある日突然現出するというものではないだろう。過去からのいろんな流れの音楽が自らの中で絡まりあいながら、その果てに「自分でしかできない音楽」の片鱗がつかめるのではないか。「オリジナリティ」なんてものが、「自分の音楽」なんてものが、そうそう易々と手に入ると思うのが間違いであるような気がする。参考リンク:山崎まさよし十六夜」について「そのテがあったか!」
カバー曲を取り上げて歌う、ということも、そこに盛り込む新しい自分の解釈を際立たせやすいという点で、もっともっとなされてもいいんじゃないかと思う。歌詞もメロディも中途半端な自作曲だけでなく、曲として完成された名曲をあなた流のやり方でどう料理してくれるのかを見せてくれ!
勿論、「新しい音楽」「自分の音楽」を追及するという気概なしに、無節操に「あ、ここのフレーズかっこいいじゃーん!これとこっちの曲のこのクールなフレーズと合体したらもっとかっこいいんじゃーん?」とかって寄せ集めてくるなんていう「省思考」は糾弾されてしかるべきだとは思うが。
お隣のお家からスイカを貰った。ありがとうございます。くし型に切ってかぶりつく、というのが「正統派」の食べ方だろうが、我が家の場合、解体して種を取りでっかいタッパーにて冷やして食べる。皮やら種は素早くゴミ捨て場に。風情も何も無いし種を取るのが面倒くさいが、これはこれでわっしわし食べる事ができてなかなかいいのよ。